戦国武将と現代企業の経営リ-ダ-(その1)

まえがき

戦国武将のリーダーとしての素養や資質は、現代企業の経営リーダーにも通じるところがあり、リーダーシップとは何かを再考してみるに大きな価値があると思う次第です。

よってかながわ士会の「経営コラム」の題材として「戦国武将と現代企業の経営リ-ダ-」を取り上げさせて頂きました。実際の戦国武将を事例に取りながら450年の時を超えて現代の企業経営者にも必要かつ普遍的な素養や資質とは何かについて再考してみたいと思います。

リーダーとしての素養をもつ戦国武将として筆者が最も好感をもっている武将がいますが、それは九州福岡県の柳川藩始祖「立花宗茂」です。耳慣れない名前であり「そんな戦国武将はあまり聞いたことがない」と誰もが思われることでしょう。

ここではそんな武将を取り上げて、乱世に生きた波乱万丈の立花宗茂の生き様を今日の経営者に必要なリーダーの資質と結びつけながら、次回(その2)以降、現代経営者にも大いに参考となる武将の資質をご紹介したいと思います。

<主題>  戦国武将と現代企業のリ-ダ-
その1 戦国武将にみる経営者像
その2 戦国武将「立花宗茂」のリーダーとしての信念と生い立ち
その3 戦国武将「立花宗茂」のリーダー心得
その4 武将のリーダーシップ実践の事例(1/2)
その5 武将のリーダーシップ実践の事例(2/2)
その6 組織のリーダーシップ論
その7 戦国武将のリーダーシップ機能
その8 戦国武将「立花宗茂」のリーダーシップ資質

【その1】戦国武将にみる経営者像

わが国戦国時代の名将・名君といえば、誰でも先ず武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの名を頭に思い浮かべ、立花宗茂については歴史ドラマでとりあげられることもなく、あまり知られていないようですが、筆者は、自己保身より天命を重んじ、何事にも義と理の筋を通して、家臣や農民を大事にした立花宗茂の生き方に好感と共感を抱く者であり、大器度量の人物、乱世の名リーダーとしての価値を高く評価し敬意を表している次第です。ここで立花宗茂の生い立ちに若干ふれてみます。

九州地方の名門大友氏の一族、豊後の国人領主戸次氏(べっき氏)から分家して筑前を領した立花氏の流れを汲む名将で、37戦無敗の勇将でもあり、豊臣秀吉をして「東の本田平八郎忠勝、西の立花宗茂をもって東西無双の武者。立花宗茂は九州第一の者なり」と賞せしめ、武略に強いだけでなく、義を重んじ、あらゆる判断や行動に筋目が通っており、理にかなわぬことは決してしない名将であったといわれています。(注:本田平八郎忠勝:徳川家康の筆頭家老で天下統一の立役者である)

権謀術数の限りを尽くし他者を抹殺してまでも自己保身や天下獲りの野望に突っ走ることが通常とされ、いかなる手法によろうとも結果的に富を制したものが勝者として称賛された戦国時代の世にあっても、戦う正義の是非を考え、あくまでも天命に従い義と理の筋を貫き通して部下を守り立派に生き抜き、家名を保った真の名君であったと思います。

企業や組織にはトップの姿勢が反映されるものですが、この立花宗茂のような、自己の利害得失や地位の安泰・保身、出世に執着せず、あくまでも義と理の筋を通し、領民(社員や顧客)のことを優先して思いやる確たる治世の哲学をもった剛毅で潔癖な名君・名将こそが、混迷する乱世の現代に期待される経営者像ではないでしょうか。

中小企業の経営者やリーダー、現代企業の管理者や経営トップという地位についている人のなかにも、単に自分自身の保身や出世、損得のためには手段を選ばず、従業員を踏み台にするだけの上司や経営者が増殖する傾向にあるようです。現代企業において、彼の人生哲学や生きざまから見習うべきことは多いと思います。

参考:立花宗茂の年表

年代年齢戦国武将「立花宗茂」の経歴
1567年1歳大友氏の重臣「高橋紹運」の長男として生まれる(現在の大分県)
1581年14歳第2次太宰府の戦いで初陣を飾る。敵将・堀江備前を討ち取る武功を挙げる。立花道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と結婚し、立花家の婿養子となる。
1585年18歳立花道雪が死去。立花家の家督を継ぐ。
1586年19歳島津軍3万が筑前国(福岡県西部)に侵攻。 実父・高橋紹運は長男宗茂を守るため、岩屋城で僅か800名で籠城し38才で玉砕討死、島津軍は約4000名の死者を出す大打撃となり、その後、豊臣秀吉の援軍が間に合い宗茂は無事生還した。
1587年20歳豊臣秀吉の九州攻めで活躍。柳川城(福岡県柳川市)の城主となる。肥後一揆を平定し、さらに武功を上げる。
1588年21歳上洛を果たし、従五位下・侍従に叙せられ、豊臣姓を賜る。
1590年23歳小田原征伐に参戦。この際、豊臣秀吉は立花宗茂のことを、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評している。
1592年25歳豊臣秀吉による朝鮮出兵である文録の役(ぶんろくのえき)に参戦。小早川隆景(こばやかわたかかげ)が主将を務めた6番隊として参陣。
1597年30歳文禄の役に続く朝鮮出兵となった慶長の役(けいちょうのえき)では、安骨浦(あんこっぽ)の守備を務める。
1600年33歳関ヶ原の戦いに西軍として参戦。家康の東軍に寝返るよう誘われるも拒絶。戦後は、改易浪人となる。
1603年36歳徳川筆頭家老の本多忠勝の推挙により、徳川家康から陸奥棚倉(福島県)に1万石を与えられ小藩ではあるが大名に返り咲く。ただし宗茂は徳川の相談役として江戸詰め
1614年47歳大坂冬の陣で徳川方として参戦。このとき、立花宗茂が豊臣方に寝返らぬよう、徳川家康からの熱心な説得を受ける。
1615年48歳大坂夏の陣にて、2代将軍・徳川秀忠の軍師及び警固役となる
1620年53歳旧領であった筑後国・柳川13万石を与えられ20年の時を経て城主に復帰、豊臣方武将では唯一の例である。
1638年71歳島原の乱の平定に参加。立花忠茂に家督を譲る。
1642年75歳徳川家康以降3代将軍の相談役として奉公、江戸柳原の藩邸にて死去。

       

立花宗茂(大慈院所蔵の肖像)

立花道雪(宗茂の養父)

誾千代(道雪の実娘、宗茂の正妻)

          

(出所) https://www.touken-world.jp/  イメージ画像

執筆者プロフィール

福岡県生まれ、(国立法人)九州工業大学修士課程修了。大手造船会社にて海外プラントの設計や海外現地調査、技術指導(主に東南アジア)、省エネルルギ対応。その後大手住宅機器メーカへ転身し、生産革新室長として工場の現場改善による生産性向上、IT化、海外生産拠点の計画、グローバル生産システム構築等に注力、その後独立開業し中小製造業の経営改善や事業再生の支援ならびに顧問、海外業務としてインドものづくり学校設立支援や海外産業人材育成協会(経産省)等での訪日研修、大学や各種機関での講師活動に従事。

野口隆 



神奈川中小企業診断士会