戦国武将と現代企業の経営リ-ダ-(その2)

【その2】 戦国武将「立花宗茂」のリーダーとしての信念と生い立ち

◇「その1」では現代企業の経営者として備えるべき大切な素養や資質とは何かを考える上で戦国武将から学ぶべきことが多いこと、時代背景は現代とは全く異なるものの、組織や人心を束ねるリーダーとしての普遍的な能力や役割は、現代企業の経営トップも戦国武将と重なる部分は多く、大いに参考となること等をご紹介しました。

その題材として「立花宗茂」を取り上げましたが、戦国時代では誰もが知っている武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のような名将ではありません。しかし彼らと比べても決して劣らぬ、それ以上にリーダーとしての高潔な生き方や高い素養を持つ逸材でした。

◇「その2」では「立花宗茂」のリーダーとしての信念と生い立ちについて触れてみます。

縦横無尽の戦略戦術

数多い戦国武将の中で、九州柳川藩の初代藩主立花宗茂(1567~1642年)ほどさわやかな人物は少ないと思います。3000人前後の兵を操ることが多く、殆どの戦いで数に勝る敵と戦わざるを得なかったが、戦いのコツを心得た縦横無尽の戦略戦術によって必ず勝ちを収めています。

宗茂は自らの武勲を誇ることは殆どなかった

「数多くの戦いを経験したが、特別の軍法を用いることは少なく、その場の状況や敵の人数などを見定めてそのつど作戦を立て、宗茂の3000人前後の兵力は1万人以上の力を発揮しました。それは兵を公正に扱い、ムリに疲れさせることなく、情をかけ、少々の過失を見逃してやったからである。常に慈悲の心をもって接すれば、いざという時には兵は一命を捨てて奮戦するものである」というようにチームワークこそ勝利への道であると述べています。

もとより宗茂の信念に虚偽りはなく、その生涯において部下を無慈悲に罰したり残虐な仕打ちをしたりすることは一度もなかったそうです。しかも戦国時代の武将がともすれば現実的な利害や保身に左右されがちであったのに対し、宗茂は武士としての名誉や義を重んじる姿勢を貫いたのです。

関が原の戦いで西軍に加わる

関が原の戦いで西軍に加わり、流浪の身に落ちぶれてしまったが、彼はいささかの後悔もしていないのでした。

豊臣秀吉の恩顧という忠義に殉じることこそ至高のものである、という宗茂の美学があったからであろうと思われます。この美学も実父の高橋紹運(じょううん)、養父の立花道雪の生き様に大きく影響されているのも史実からわかります。

宗茂の少年期の九州では豊後の大友宗麟と薩摩の島津義久との覇権争いの真っ只中で、足利時代からの旧家であり九州の覇者であった大友氏の力が弱くなっていた時代です。弱体化した大友氏から島津氏へ寝返る武将があいついだ下克上の戦乱時代に、実父の高橋紹運(1586年38歳没)、養父の立花道雪(1585年72歳没)のひたすら大友氏に忠義をつくす生き方は、まさしく宗茂に受け継がれたのです。

とりわけ実父、高橋紹運の岩屋城(福岡県太宰府市)の戦いにおける壮絶な玉砕は、宗茂の生涯を決定する出来事であった。宗茂は実父高橋紹運から自らの命を賭けても守るべき武士としての生きざまを実父の命と引き換えに学んだのです。宗茂は人間形成期に二人の父から多くのものを学び、数々の実戦を経ながら、戦略家としてリーダーとしての素養を花開かせました。

実父の岩屋城玉砕は島津義久の兵力3万人という大軍に対峙すること篭城守備兵力はわずか800人、誰がみても勝負は決していたのです。岩屋城を空けわたし和睦を要求する使者がなんども足を運んだがこれを聞き入れませんでした。もともと豊臣秀吉の援軍が間に合わなかった結果ですが、島津義久は一日で簡単に落とせると軽んじていたものの戦がはじまると岩屋城は14日間も持ちこたえ、紹運以下玉砕したものの勇猛果敢と名を馳せていた島津軍は4000人の死者と数千人の負傷者を出すという大打撃をこうむったのでした。

この実父の奮戦により立花城(福岡県新宮町)の宗茂は九死に一生を得たのですが、これは実父の読みどおり宗茂を助けるための戦でありました。この奮戦により豊臣秀吉の大軍は九州小倉入りを果たし、島津義久軍も宗茂が篭城する立花城を落とすことをあきらめ兵を引くことになりましたが、このとき実父の紹運38歳、宗茂は若干18歳の若さでした。

関が原の合戦後、柳川藩は浪人の憂き目に

関が原の合戦後、柳川藩は改易され家臣とともに浪人の憂き目に遭いましたが、宗茂はその実直な人柄によって徳川家康・秀忠・家光の三代にわたる将軍から深い信頼を受け、ついに柳川に再封されることになります。さらに柳川藩の藩祖としての礎を築き、以来立花藩は徳川260余年間移封もなく柳川藩を治めることになりました。

豊臣方に組して一旦は改易されたものの再封され、徳川一代、二代、三代将軍の筆頭御相伴衆、今風にいえば家康・秀忠・家光の3代にわたる将軍の代表相談役として深い信頼をうけた武将は皆無です。しかも用心深い徳川家康が、元々敵将であった立花宗茂に向けた信頼は稀有でありました。

以上、本コラムでは立花宗茂の戦国リーダーとしての役割や信念やどのようにして獲得したのか、その生い立ちについて簡単に述べました。 

【その3】以降では宗茂の史実から読み取れる多くの事例から、戦国武将のリーダーとして稀有な資質を備えていたことをご紹介したいと思います。その事例からは下表にあるような「リーダーの資質」が確認できますが、ここではご参考まで事前トピックスその資質をご紹介しておきます。

  リーダーの資質★真摯で人間的な感性が備わっている。
★人に信頼感を与える品性がある
★人の意見に耳を傾ける謙虚さがある
★誰からも好感をもたれる人間的な魅力がある
★部下の失敗や物事に我慢強く許容できる寛大性がある
★迷いが少なく意思決定できる

これらの資質は現代企業のリーダーとしても具備すべき必須の機能であると思われます。

◇さらに現代企業の「リーダーの役割」について文献から引用して整理すると下図のようになりますが、これを一言で表現すると「経営リーダーの基本機能」とは「人を動かして目標を達成する」ということになります。

◇時代背景こそ大きく異なるものの戦国武将のリーダー機能も本質としては同等ということに気づきます。 本経営コラムの【その3】以降で検証してみたいと思います。

執筆者プロフィール

福岡県生まれ、(国立法人)九州工業大学修士課程修了。大手造船会社にて海外プラントの設計や海外現地調査、技術指導(主に東南アジア)、省エネルルギ対応。その後大手住宅機器メーカへ転身し、生産革新室長として工場の現場改善による生産性向上、IT化、海外生産拠点の計画、グローバル生産システム構築等に注力、その後独立開業し中小製造業の経営改善や事業再生の支援ならびに顧問、海外業務としてインドものづくり学校設立支援や海外産業人材育成協会(経産省)等での訪日研修、大学や各種機関での講師活動に従事。

野口隆 



神奈川中小企業診断士会