戦国武将と現代企業の経営リ-ダ-(その5)

■前回までの連載「その1,2,3」では;

前回までの経営コラム「その1,2,3」では、筆者が当代随一と信じる戦国武将「立花宗茂1567~1642年」を題材にリーダーとしての素養や資質について検証し、その生き様についてご紹介しました。さらに「その4」では史実に残っている具体的な事例1,2,3をもとに検証してみました。今回は「立花宗茂」の人生後半におけるリーダーシップ実践の具体的な3つの事象をご紹介します。昨今の企業経営では経営スキルや手法ばかりが先行し、組織を構成する人間や人心への視点が欠落していると感じますが、この事例を通して現代企業の経営トップにとっても備えるべき重要な資質であり教訓として認識すべきと思う次第です。

■事例4 領民や家臣に愛情を注いだリーダー(立花宗茂35歳:1601年)

 関ヶ原の合戦の残党征伐でやがて徳川家康傘下の加藤清正が先手として柳川城(福岡県柳川市)攻略にとりかかることとなったが、宗茂の実力を惜しむ加藤清正から「俺の部下にならないか」と誘われ、また関が原合戦後の九州敗走時でも命の恩人となった宗茂の恩に報いるため薩摩の島津からも「大島を領地として与えるから、自分と組んで戦おう」との誘いを受けたが、「どちらと組む気もない。自分は堂々と柳川城で戦う」と拒否し、平素の善政に感謝していた領民が「自分たちも籠城して一緒に討ち死にしたい」との申し出でに対しても、武士以外の者に危害が及ぶことを快しとせず、気持ちは有り難いがと丁重に断った。

この結果、多勢に無勢で勝ち目がなく結局城を明け渡すことになった。加藤清正はじめ彼を惜しむ多くの武将がいたこともあり、命だけは救われたが彼は浪人となり、以後数年間は困窮生活を余儀なくされたのだがそんな主君にも多くの家臣が従い、どこまでも領民のことを思いやり、筋を通して行動する名君でもあった。

 開城して柳川城を去るときに、多くの領民が取り囲み「われらご領内の百姓は忠義一途に凝り固まっておりますればお侍方に少しも劣らぬものでござる。人数にも不足はござらぬ。兵糧米も奉ります故ご開城は切に思いとどまりませ!」と領内の百姓供々が切願しながら徹底抗戦を説いたことが記録に残っている。政治家としても宗茂の日々の行動が民政に行き届いていたことが分かる。会社組織でも経営トップが従業員を愛し信頼関係を築くことに日々努力していれば会社存亡の時や厳しい場面や苦境に遭遇しても必ずや従業員の一致団結力によって危機を乗り越えられることであろう。人間としても上に立つ上司としても尊敬されること、厳しさの中にも従業員への奉仕や思いやり、感謝の念がリーダーの条件と言えよう。

■事例5 人望力、人間力、信頼のあるリーダー(立花宗茂40歳:1606年)

 こういう人物は信頼され、天道様は決して見捨てないものと思います。案の定、雌伏数年を経て加賀藩前田家から10万石の好待遇で士官しないかとの誘いを受けた。だが日和見的な前田家の世話にはならないとこれもきっぱり断る。 暫くして家康の命を受け御書院番頭五千石として徳川家へ士官することが決まった。宗茂も徳川家にはなんの恨みもないので、待遇や地位に拘わらずこれを快く受け入れたのである。御書院番頭の役割は大名に比べれば小禄とはいえ二代将軍秀忠の親衛隊であり、よほど信頼されなければ就任することができない役職であった。家康は低禄ながらその職を与えて、宗茂の人柄、人望に対して絶大な評価を示したのである。

 宗茂は家康に仕えるようになっても、媚びることはなく自己の信条を貫き持ち前の悠々たる人柄と自然な態度で接したようである。ある時、家康が「その方はどのような覚悟で御用を勤めているか」と尋ねた。宗茂は「天下安泰の時代では大した御用もできませぬ。お酒を十分に頂戴しておめでたい千秋楽でも唄い、御門の一つでもお守りいたしましょう」と悠然と答えたので、家康も予想しなかった回答だったようで改めて宗茂の人柄を察して信用し天守閣の見物を許すなど非常に上機嫌であったという。さらに関が原の合戦での大津攻めの話にも家康が言及したとき、破れた京極一門(滋賀県大津城主)の者も同席していたが、宗茂は問われるままに「あの時は大津城を落とし、関が原では東国大名の首を一つずつ討ち取る覚悟でした」とぬけぬけと答えたという。家康の面前を退出した宗茂に向かって井伊直政が「さすがに立花様でござる。家康公に向かってあのようなことを申されるとは常人では申せませぬ」と感嘆したと言う。

 さらに数年後は徳川家康の筆頭家老である本多忠勝の肝いりもあり、関が原で敵方武将であったにもかかわらず私利私欲のない行動は高く評価され、用心深い家康ですら小藩とはいえ奥州棚倉1万石の大名として復活を許した。

■事例6 部下だけでなく敵将からも絶大な信頼を受けたリーダー(54歳:1620年)

 1615年大阪夏の陣による豊臣滅亡の後、一国一城令や武家諸法度などを布告して磐石たる徳川政権の基礎を固めていた徳川家康が翌年死去、江戸幕府の権限は2代将軍秀忠に一元化された。秀忠は改易や転封という露骨な手段によって大名に対する統制を強化していた。そのような状況下にもかかわらず1620年将軍秀忠から宗茂に対し旧領柳川への再封が申し渡されたのである。

関が原の戦いで西軍についたため浪人に落ちぶれ諸国放浪の後、家康によって奥州棚倉の小藩に封じられていたが、二十年ぶりの柳川への復帰であった。宗茂もすでに五十四歳になっていた。翌1621年奥州棚倉から柳川へ入城した。かつて柳川を出るときに別れを惜しんで泣いた農民たちが今度は歓呼の声を上げて旧領主「立花宗茂」らを迎えた。前藩主「田中吉政」により柳川城は大がかりな手直し工事により壮大で立派な城になっていた。ある家臣がこれを見て「さすがは田中殿でございます。いい城を造られました」といったところ、宗茂は「無用の散財である。結局は領民を苦しめ、戦術的にも城内に不要な建物が多すぎる。五層五階の天守閣(柳川城)も分に過ぎている。武士たるものは常に野戦攻城の苦しみを念頭に置き武事に励み質素をむねとし、領民のために尽くすが大事である」と訓戒したという。

将軍秀忠はもともと宗茂を師として信頼し、柳川再封も早くから許可したいと考えていたふしがあるが、やはり家康生前には難しかったとようで、家康死去直後に再封を言い渡している。

秀吉も恐れていたといわれる傑出した宗茂の武勇、人柄や人望力は家康でさえ「決して15万石以上の大名にしてはならぬ」と秀忠に言い残す程であったという。

これを機に秀忠は宗茂に江戸住まいとさせ、江戸城へ毎日のように登城させ相談相手としていた。将軍の直接の話し相手にはよほどの信頼を受けている者しかなれず、いつの頃からか「御談判衆(ごだんぱんしゅう)」と呼ばれるようになっていた。外様大名でこの御談判衆になったのは宗茂唯一であったといわれる。それも筆頭御談判衆であった。現代企業に例えれば経営トップの筆頭相談役といったところであろう。得てしてこのような立場になれば将軍へのゴマすり自己保身、自己の利益を目的とした行動様式になっていくのが世の常であるが、そのようなことはなく領民の立場で正当な意見を堂々と具申していた。他の御相伴衆や大名からも信頼を受けいろんな相談に乗る機会も多かったようである。将軍秀忠や徳川幕府の中枢の人々から宗茂がいかに信任されていたかを示す逸話も多く残されている。

執筆者プロフィール

福岡県生まれ、(国立法人)九州工業大学修士課程修了。大手造船会社にて海外プラントの設計や海外現地調査、技術指導(主に東南アジア)、省エネルルギ対応。その後大手住宅機器メーカへ転身し、生産革新室長として工場の現場改善による生産性向上、IT化、海外生産拠点の計画、グローバル生産システム構築等に注力、その後独立開業し中小製造業の経営改善や事業再生の支援ならびに顧問、海外業務としてインドものづくり学校設立支援や海外産業人材育成協会(経産省)等での訪日研修、大学や各種機関での講師活動に従事。

野口隆 



神奈川中小企業診断士会